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4、天理教という宗教の客観的事実を把握する

4、天理教という宗教の客観的事実を把握する

宗教学者である島田裕巳さんの『天理教‐神憑りから新宗教へ』という本があります。
私は天理教に疑問を感じる方は一番最初に手を取るべき良著だと思います。

島田裕巳さんは数多くの著書を出版されています。
彼は時代は違え奇しくも、2代真柱の中山正善、現代に残る天理教典を編纂した諸井慶徳と同じく東京大学文学部宗教学科卒です。
島田裕巳さんの著書を読むことで、うっすら中山と諸井が大学時代どのような教育を受けていたのかが透けて見えます。

彼の立場は極めて中立的です。
宗教学者として、宗教問題の解決に対してマクロ(広義)の視点がどれほど重要なものなのか認識されていて、その使命を背負っているかのような著名な宗教学者です。

『天理教‐神憑りから新宗教へ』島田裕巳著を初めて読んだとき、そのあまりに無味無乾燥な視点と切り口に呆気にとられました。
教祖、中山みきという人間の生い立ち。
天理教が自然発生したのではなくいろんな宗教や人間と寄り添っていた現実。
中山みきと息子、秀司の関係。
金が集まるとそこに人間本来の欲が出てしまう様。
天理教に分派が多い原因。
中山正善が天理教を立て直す時代背景。
教団に都合のいい教典の編纂。
宗教法人法の現実。
巨大建築物を林立させ、美術骨董品を買いあさる過去の金の流れ。
一世信者と二世信者の信仰心の隔たり。
献金型ビジネスの限界。

ただ中立的に見た事実だけが淡々と分析されています。
しかし今は天理教に対する世間からの目は、相手にもしていない、興味のない対象という状況です。
この良著を廃刊に追いやらないためにも、是非皆様お買い求めください。

そして現代に残る天理教典を編纂した諸井慶徳という人物はかなり興味深い人物です。
この人物を炙り出すだけで当時の天理教の実態を把握できてしまいそうな感じさえします。

1914年3月30日生まれ、東京大学文学部宗教学科卒。
かなり有能な宗教学者だったようです。
2代真柱の中山正善が1906年生まれですが、21歳で東京大学文学部宗教学科に入学しています。
7歳年は離れていますが、東京大学校舎で顔を合わせているでしょうね。
そしてお互いがお互いを有能な存在であると認め合っている姿が目に浮かびます。
現代に残る天理教教典の原本はこの諸井慶徳という超有能な宗教学者によって編纂されたのだということが分かります。
そして46歳という若さで不可解な死を遂げています。

推測ですが、この諸井慶徳という人物は実直に宗教学というものに取り組んでいたのでしょう。
そして諸井は指導者としてのスター性を持った中山に近づいた。
中山もまた超有能な宗教学者である諸井に近づいた。
当時はお互いがWin-Winの関係であったことは容易に想像がつきますね。
諸井は歴史を紐解き時代とその関係を中立的な立場で考察する宗教学者でありながら、その超優秀な頭脳を新しい宗教を自らが編纂するという今後二度とないようなチャンスを得ました。
諸井は自らの宗教学者としての真っ当な興味と頭脳を天理教で利用しようと考えたのでしょう。
また、中山も彼のその能力を利用したのでしょう。

しかし諸井慶徳という人物は東京大学を入学、卒業し後世にわたって語り継がれる天理教典を生み出し、また中立的な宗教学者の視点も持ち合わせていたでしょうから、自分の残した功績が今後どれだけの不幸と苦しみを生み出すのかは容易に想像ができたのだと思います。
今後、甚大な被害を生み出す加害者になってしまったという現実に本人は苦悩し続けていたはずです。
本来ならば誠実で超有能なその頭脳を不誠実な方向に使い、利用されてしまった。
その苦悩により46年という短い人生を終えたのでしょうね。
すべては推測ですが、彼もまた被害者なのかもしれませんね。

覚せい剤を世界で初めて製造し、その後たくさんの薬の研究に繋げたのも長井長義博士という日本人でした。
長井博士もまた偉大な功績とともに、その功績を正しい使い方をしない人間によってその後の社会に甚大な被害をもたらしました。
ただ、長井博士は生前に自らが加害者であることに苦悩することなく84歳で一生を終えました。

逆に、生きながらにして加害者である実感を感じた諸井慶徳は壮絶な苦悩であったと私は推測しますね。

それを意気揚々と引用する天理教人には何と声をかけていいのか言葉が見つかりません。
頭のレベルの格差を感じます。
私が諸井だったら、同じ土俵に上げないでくれ!と思ってしまいますが、それほどまでに影響力を及ぼした諸井の能力もまた罪深きものになってしまったのでしょう。


5、天理教を批判しつくし自分自身が中立になる